2ちゃんねるはなぜ潰れないのか?

2ちゃんねるはなぜ潰れないのか? (扶桑社新書)

2ちゃんねるはなぜ潰れないのか? (扶桑社新書)

(1) ライブドアホリエモンが逮捕され、画ちゃんねるの管理人(さんぞう)も挙げられたのに、なぜ2ちゃん管理人の西村ひろゆきは捕まらないのか。本人曰く、こういうことらしい。

  1. 2chのサーバーが海外にあるから。
  2. 2chに犯罪予告の書き込みがあっても、警察からアクセスログの提出要請があれば、素直に応じているから。
  3. 本当に厄介なのは管理人なしでコントロールが効かない存在なのであって、2chはひろゆきという管理人がいる分、まだコントロールが可能だから。

(2) ネットサーフィンを楽しむ普通の人くらいでは知らないような専門用語が頻出する。用語解説がないので、読みづらい箇所が少なくなかった。

「受験の神様」における悪質なデマゴギー

三権分立なんて幻想よ」。「実際は国会じゃ内閣の言いなりで法律を作ったり、裁判所じゃ政治家の事件をもみ消したり」。


これは、土曜9時のドラマ「受験の神様」のなかで、登場人物の1人が言った台詞である(ちなみに、この台詞が語られた第3話のサブタイトルは「三権分立」であった)。あらすじは、http://nnwa.blog106.fc2.com/blog-entry-523.htmlhttp://plaza.rakuten.co.jp/aosaga/diary/200707290000/を参照。


この台詞の前段、すなわち「三権分立は幻想であり、実際は国会は内閣の言いなりで法律を作っている」という命題は、正確さを欠いている。それ以上に、もしこの台詞を聞いて、「そうだそうだ」「政治家は三権分立を守っていないぞ」「国会議員は内閣の言いなりで仕事をさっぼってやがるぞ」というふうに、政治家批判の意味で受け止めた視聴者がいるとすれば、おそらくそいつは無知である。

というのも、日本国憲法は、国会と内閣の関係について、「議院内閣制」モデルを採用しているからである。議院内閣制においては、内閣の首長である総理大臣は、国会の多数派から選出される。つまり、内閣は、国会の多数派(=与党)によって形成される。

するとどういうことが起こるかというと、国会の多数派の政策と、内閣の政策は一致することになる。例えば、国会の多数派が「北海道に高速道路を造ろう」という政策を掲げている場合、当然、内閣も同じく「北海道に高速道路を造ろう」という政策を有している。これが議院内閣制における通常の政治状態である。

確かに、国会に提出される法律案の9割は、内閣提出である。それゆえ、あたかも「国会は内閣の言いなりで法律を作っている」ように見えるのかもしれない。しかし、どうせ「北海道に高速道路を造る」という同じ政策を実現するための法律案なのであるから、それを国会議員の側が提出するか、内閣の側から提出するのかは、大した問題ではないのである。
 
したがって、「国会は内閣の言いなりで法律を作っている」というドラマの台詞は、表現として誤りである。議院内閣制における通常政治の下では、国会の多数派と内閣の政策が一致するので、あたかも「言いなり」のように見えたとしても、それは決して国会が仕事をさぼっていることを意味しないからである。あえていえば、「国会と内閣が一丸となって1つの政策プログラムを遂行している」、というのが正確な表現なのである。

  ◇   ◇   ◇

では、議院内閣制において「通常でない」政治とは何か。それは、国会の多数派の政策と、内閣の政策との間に、不一致が生じる場合である。議院内閣制においては通常両者は一致するはずであるから、不一致が起こるのはイレギュラーな事態である。

だが、このイレギュラーな事態を、我々が目撃したのはつい最近のことである。そう、小泉内閣が「郵政民営化」法案を提出したのに対し、参議院の多数派が同法案を否決したというのがイレギュラーの例なのである。このようにイレギュラー事態においては、「国会は内閣の言いなりで法律を作っている」という命題は、完全に誤りとなる。

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ドラマこの台詞の後段、すなわち「裁判所が政治家の事件をもみ消した」という事実は、寡聞にして私は知らない。この台詞において想定されている事件が実際に存在するというのならば、教えて欲しいものである。実際に存在しないなら、悪質なデマゴギーであると言わざるを得ない。

内山融『小泉政権』(中公新書・2007)

小泉政権―「パトスの首相」は何を変えたのか (中公新書)

小泉政権―「パトスの首相」は何を変えたのか (中公新書)

事実

参院選を前に、前政権である小泉内閣の功罪を振り返るのが本書である。本書では、小泉首相が在任中にやったことが、要を得てまとめられている。

新聞を読めば書いてあったはずの事柄なのであるが、意外に忘れているので、総復習に役立つ。文章も読みやすい。

評価

しかし、本書が小泉政権に対して与えている評価には、疑問がある。

著者である内山氏は、「新古典派経済学に基づくアイディアが、財政赤字の削減は民間活力の増大を通じて経済成長という恩恵をもたらすことを示した」(p204)として、小泉政権における新自由主義的な経済政策を評価している。その弊害としては「格差問題」が生じたことがよく指摘されるのであるが、内山氏は「ジニ係数」の推移のデータに基づいて反論している。「格差の拡大は、小泉改革以前から進行していたと考えられ」、むしろ小泉改革中盤には格差の改善すら観察されたのだ、と(p206)。

これに対して、小泉内閣外交政策については、内山氏は「戦略性を欠いていた」と厳しい批判を与えてる。すなわち、小泉首相靖国神社参拝を続けたことにより、対中・対韓関係が阻害され、首脳間外交がストップした上に、企業の対中投資環境に影響を与えるなど、経済的な利益を逸失したという(p210)。だが、先ほどとは異なり、靖国参拝がいかほど対中投資の停滞を招いたかについては、具体的なデータは示されていない。それゆえ、説得力に欠ける。

新古典派には好意的に、だが靖国参拝には否定的にという立場を、内山氏がとるのは自由である。だが、そのような著者個人の立場が、「小泉政権に対する評価」の中に紛れ込んでいる印象は拭えなかった。

頑張れ!PJ・平藤清刀さん

PJとは、livedoorニュースパブリック・ジャーナリストのことである。要は、市民記者みたいなものである。http://news.livedoor.com/category/date/38/

PJのなかで気炎を吐いているのが、平藤清刀氏である。氏のblogで記事一覧を見ることができる(http://blog.livedoor.jp/oushi/)。

中越沖地震について書かれた7月17日の記事では、避難所へ上がりこんでお年寄りや怪我人に何か喋れとマイクを突きつける在京マスコミの取材姿勢を批判している。

7月3日の「久間防衛相を敢えて擁護してみる」では、久間発言に対するバッシング報道を批判し、原爆の投下が日本の無条件降伏を促したこともまた事実であると記している。その上で、久間発言の真意を、原爆投下 → 日本の降伏を促す → ソ連による北海道占領を免れるという、一つの歴史認識を示したものとして理解している。

  ◇   ◇   ◇

思うに、「莫迦げている」と「妥当でない」の2つは分けなければならない。おおよそ真面目に考慮するに値しないような「莫迦げた」見識であれば、バッシングされてしかるべきである。これに対して、議論として一応成り立つものの「妥当でない」見解というのもあるはずである。これについては、冷静な批判と検討に付されるべきである。

では、「原爆投下 → 日本の降伏を促す → ソ連による北海道占領を免れる」という見方は、おおよそ成り立ちえないのだろうか。議論と検討に値しないほどに「莫迦げた」発言なのだろうか。「問題発言」というレッテルの下に、議論を封殺し、思考停止に陥っているのではなかろうか。

このような議論封殺・思考停止を助長する、一部メディアのやり方には警戒しなければならない。普段は、政治家に対して「歴史認識を示すべきだ」と要求しておきながら、ひとたび政治家が歴史認識を披瀝したとたんにバッシング攻撃に出るというのが、彼らのやり方なのであるる。彼らが「政治家は歴史認識を示すべきだ」と言うときは、「(我々の考えに合致する)歴史認識を示せ」という意味である。

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7月6日の記事も、優れている。久間発言の後、米高官のロバート・ジョゼフ氏が、「原爆の投下は正しかった」と発言をしたのであるが、この米高官発言に対して野党もマスコミも反応が鈍いのはどういうわけだろうかと皮肉を投げ掛けている。同感である。

ところで、朝日新聞は、久間発言の際には社説を使って久間批判を展開したのだが、ジョセフ発言については音沙汰なしであった。どういうわけだろうか。

アダルトゲームにはまる息子が心配

読売新聞の教育相談のコーナーに、高校2年生の息子が美少女系のマンガやゲームにはまるようになり心配だという内容の父親からの相談がよせられていた(http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/qanda/consul/20070713wn02.htm)。

その息子は、「小説を読むのが大好きで、書いたりもしている」という「可愛い面」がある一方で、「美少女系のアダルトもの」に「少し依存している面」があり、父親として接し方に困っているということであった。

この相談に対し、回答者は、「彼がどうして、ロリコン趣味に走るのか、その魅力や心理についても一度正面から向き合ってじっくりと聞き、受けとめてあげる必要がある」という無難な回答を寄せている。

しかし、この事例は、「性に対する異常な関心」というラベルのもとに、青少年の「問題行動」としてカテゴライズされるべきではない。

なぜ、相談者の息子さんは、美少女系のゲームにはまっているのか。それは、既存のメディアが、彼にとってリアリティーを失っているからである。ここで言う「既存のメディア」とは、「ベストセラー」の大衆小説、「月9」とか呼ばれるテレビドラマ、「全米が涙した」映画作品等々のことである。これら一般の大衆娯楽メディアに対して、彼はリアリティーを感じていない。

彼は、「美少女ゲーム」という辺境メディアにあってはじめて、彼の実存を投射できるだけのリアリティーを得ることができるという事実を発見したのである。

旧世代に属する人々は、漱石や鴎外やカミュサルトル村上春樹吉本ばななの作品を通じて、自己の実存と他者・社会との関係に向き合おうとしていた。これと全く同じような意味において、彼は、「美少女ゲーム」というメディアに接しているということができる。要するに、「文学」の定義の問題である。

相談者が参照すべきは、東浩紀の新著『ゲーム的リアリズムの誕生』(ISBN:9784061498839)である。同著において、東は、「涼宮ハルヒの憂鬱」などのライトノベル作品や「ONE」などの美少女ゲーム作品の分析を通じて、これらの作品を旧来の自然主義文学と対置される「新しい文学」として位置づけることを試みている。

「近代社会は、大きな物語の大規模で画一的な伝達を必要とする。コンテンツ志向メディア、すなわち出版やラジオやテレビは、まさにその要請に応えて成長したメディアだと言える。しかしポストモダンは、近代とは異なる原理でそしきかされている。そこでは、ひとつの大きな物語の伝達ではなく、むしろ多様な小さな物語の共存が必要とされる。したがって、メディアにも異なる役割が期待される」(同書p150)。

涼宮ハルヒとオタクの欲望

hiranoaya_daisuki2007-07-07

 涼宮ハルヒは、オタクの欲望を象徴していると思う。

 周知のごとく、ハルヒの登場時のセリフは、「宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたらあたしのところに来なさい」である。ハルヒは普通の人間には興味を示さない。まだ見ぬ「宇宙人、未来人、異世界人、超能力者」との邂逅を求めている。
 それは、あたかも「三次元なんかに興味ねーよ」(http://www.geocities.jp/pugera3d/)とばかりに現実の女性を拒絶して、「メイドロボ」だとか「ネコミミ少女」だとか「血の繋がらない妹」とかいった異形の存在との出会いを夢想するオタクのように。

 しかし、現実にはそんなものは存在しない。だから、ハルヒはいつも「憂鬱」なのだ。オタクたちも、「理想のメイド」や「理想の妹」と出会うことはない。薄汚い三次元ビッチが跋扈する現実世界において、オタクの居場所はない。オタクもまた憂鬱である。

 ハルヒの「憂鬱」が一定限度を超えたとき、「閉鎖空間」と呼ばれる異世界が発生する。薄暗い閉鎖空間における創造主は、ハルヒに他ならない。閉鎖空間では「神人」と呼ばれる青い巨人が、現実を模した空間を暴れ回りそれを破壊していく。
 現実世界に苛立つオタクたちが逃げ込んだのは仮想世界であった。仮想世界の電脳空間において、オタクたちは、傍若無人に振る舞うことができるのである。そしていまやその勢力は仮想空間にとどまらない。彼らの欲望は、かつて電気街であった「秋葉原」を破壊し、彼らの帝国である「アキバ」を創造したのである。

  ◇   ◇   ◇

 このように、涼宮ハルヒの存在は、現代のオタクのメタファーとして描かれていると思う。しかし、涼宮ハルヒの物語は、そのようなオタクのあり方を肯定していない。

 「涼宮ハルヒの憂鬱」のラストで、ハルヒは主人公・キョンとともに閉鎖空間に迷い込む。元の世界に戻ろうと呼びかけるキョンの言葉をハルヒは拒む。

「いいのよ。もう。だってほら、あたし自身がとっても面白そうな体験をしているんだし。もう不思議なことを探す必要もないわ」(原作p283)。

 それでも元の世界に戻るべきだと説得するキョンに対し、ハルヒは口を尖らせてこう言うのだった。

「あんたは、つまんない世界にうんざりしてたんじゃないの? 特別なことが何も起こらない、普通の世界なんて、もっと面白いことが起きて欲しいと思わなかったの?」(原作p284)。

 いうまでもなく、「つまんない世界にうんざり」し、「もっと面白いことが起きて欲しいと」思っていたのはハルヒである。

 しかし、物語は、居心地の良い閉鎖空間にこのまま止まることを肯定しない。その契機は、キョンハルヒにキスをすることによって与えられる。キョンハルヒにキスをした瞬間、閉鎖空間は消滅し、二人は日常世界に帰還するのである。

 夢は醒めなければならない。ハルヒは、キョンのキスによって、再び退屈な日常に生きる勇気を与えられたのである(参照「結局、なんでキスしたら元の世界に戻ったのよ」http://d.hatena.ne.jp/kkobayashi/20060705)。