アダルトゲームにはまる息子が心配

読売新聞の教育相談のコーナーに、高校2年生の息子が美少女系のマンガやゲームにはまるようになり心配だという内容の父親からの相談がよせられていた(http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/qanda/consul/20070713wn02.htm)。

その息子は、「小説を読むのが大好きで、書いたりもしている」という「可愛い面」がある一方で、「美少女系のアダルトもの」に「少し依存している面」があり、父親として接し方に困っているということであった。

この相談に対し、回答者は、「彼がどうして、ロリコン趣味に走るのか、その魅力や心理についても一度正面から向き合ってじっくりと聞き、受けとめてあげる必要がある」という無難な回答を寄せている。

しかし、この事例は、「性に対する異常な関心」というラベルのもとに、青少年の「問題行動」としてカテゴライズされるべきではない。

なぜ、相談者の息子さんは、美少女系のゲームにはまっているのか。それは、既存のメディアが、彼にとってリアリティーを失っているからである。ここで言う「既存のメディア」とは、「ベストセラー」の大衆小説、「月9」とか呼ばれるテレビドラマ、「全米が涙した」映画作品等々のことである。これら一般の大衆娯楽メディアに対して、彼はリアリティーを感じていない。

彼は、「美少女ゲーム」という辺境メディアにあってはじめて、彼の実存を投射できるだけのリアリティーを得ることができるという事実を発見したのである。

旧世代に属する人々は、漱石や鴎外やカミュサルトル村上春樹吉本ばななの作品を通じて、自己の実存と他者・社会との関係に向き合おうとしていた。これと全く同じような意味において、彼は、「美少女ゲーム」というメディアに接しているということができる。要するに、「文学」の定義の問題である。

相談者が参照すべきは、東浩紀の新著『ゲーム的リアリズムの誕生』(ISBN:9784061498839)である。同著において、東は、「涼宮ハルヒの憂鬱」などのライトノベル作品や「ONE」などの美少女ゲーム作品の分析を通じて、これらの作品を旧来の自然主義文学と対置される「新しい文学」として位置づけることを試みている。

「近代社会は、大きな物語の大規模で画一的な伝達を必要とする。コンテンツ志向メディア、すなわち出版やラジオやテレビは、まさにその要請に応えて成長したメディアだと言える。しかしポストモダンは、近代とは異なる原理でそしきかされている。そこでは、ひとつの大きな物語の伝達ではなく、むしろ多様な小さな物語の共存が必要とされる。したがって、メディアにも異なる役割が期待される」(同書p150)。