京都父殺害少女のせいでアニヲタ憤慨

hiranoaya_daisuki2007-09-21

この事件のせいで「School Days」というアニメが放送中止になって、全国のアニヲタが激怒しているという話である。

http://www.mainichi-msn.co.jp/entertainment/manga/manganews/news/20070919mog00m200002000c.html

中止になったのが、その最終回だったというのも不味かった。「School Days」は伊藤誠桂言葉(ことのは)、西園寺世界の3人の高校生の三角関係を描く泥沼愛憎劇で、原作のゲームでは、恋愛関係のもつれからヒロインの一人が刃物で切りつける結末もある(画像はゲーム版)。なので、全国のアニヲタは、アニメ版「School Days」がどのような結末をむかえるのかwktkしていたのだ。

というわけで、警察官の父親を殺した京都の16歳少女は、全国のアニヲタから恨みを買うことになったわけである。

もっとも、ゴスロリ趣味で、殺害時にわざわざ黒ゴス服に着替えていたというからには、この少女もアニヲタかもしれない。中学時代は美術部に所属し、ノートの隅にイラスト漫画をよく描いていたという。これは、典型的な「痛い」子であり、それゆえアニヲタの可能性は高い。「銀魂」とか好きなんじゃないか。

とすれば、この16歳少女は、はからずも同胞から恨みを買ったことになる。私も同胞の一人として言わせてもらえれば、「School Days」を放送できないなら、「ドラえもん」もまた放送できないはずである。某殺人事件の被告人の元少年は、「遺体を押入れに入れればドラえもんがなんとかしてくれると思った」と主張しているからである。アニメに影響されている点では、「School Days」も「ドラえもん」も同レベルである。

可能性まで含めれば、放送できないアニメは無限にある。自分も空を飛べると思って、ビルから転落する事故が起きる可能性を考えれば、「パーマン」は放送できない。秘孔を突くつもりが、誤って相手の目を突く事故が起きる可能性を考えれば、「北斗の拳」は放送できない。

アニメに影響されて犯行に及ぶような「おかしい奴」は存在しうる。しかし、その「おかしい奴」を基準にする限り、放送できるアニメは一つもない。

もしも明日が晴れならば

 この前、「もしも明日が晴れならば」というエロゲを、中古屋に売り飛ばした。すでに開発メーカーは製造を終了しているにもかかわらず、エロゲヲタの間でじわじわと評価が広がってきているソフトであり、中古価格が高騰していたからである。

 私は、祖父地図で7450円で中古を購入して、プレイ→コンプ。それを、今回、場末の中古屋で8000円で売り飛ばしたので、500円の儲けが出た。中古ソフトの転売で利益が出たのはラッキーであった。

 で、その中古屋を再度訪れたら、店頭で12000円の値札がついていた。ちょっwっwwwwwぼりすぎwwwwwうはwwおwwっw。

 8000円出してプレイする価値はあると思うが、それが上限であろう。物語は、死んだ恋人が幽霊になって帰ってきたけど、夏が終わる頃にはあの世へ戻らなければいけない、だからお別れを言いにきたの、でも離れたくない――みたいなどっかで見たような話である。作りが丁寧な泣きゲーだとは思うが、12000円は実体的な価値から乖離している。

 こういう現象が全国各地で起こったことが、バブル経済発生の発端だった。

奈良県は子育てによい環境か?


奈良県には、児童ポルノの単純所持を処罰する条例がある。「子どもを犯罪の被害から守る条例」の13条である。このような条例を設けたのは奈良が全国初であり、今のところ、国の法律レベルで単純所持を処罰していない(児童ポルノ法が処罰対象にしているのは「製造」「販売」「頒布」等である)。

児童の性的権利を保護法益とするのであれば、児童ポルノの製造・販売・頒布を禁止すれば十分であり、単純所持まで処罰するのは行き過ぎであるとして、この条例を問題視する声は少なくない。しかし、現実に奈良県ではこの条例が施行されており、実際に適用され摘発が行われている(http://fout.garon.jp/?key=Gw1x1Q5V0_JGwP2ViI-K8WG:N1H2&ext=jpg&act=view)。

ロリコンにとっては脅威である。なぜなら、1999年に児童ポルノ法が施行されるまでは合法的に売られていたわけであるから、ロリコンであれば、今でも児童ポルノの一つや二つくらいは保有していると考えられるからである。さらに、インターネット上では、電磁的記録化された児童ポルノに容易にアクセスできる状況にある。

というわけで、ロリコンは奈良に住めない。児童性愛者は奈良から駆逐されることになる。このことは、親の立場からみれば、安心して子育てできる環境が奈良にはあるということを意味する。少なくとも、ロリコンによる性犯罪に巻き込まれる可能性は、このような条例がない他府県に比べると低い。

子どもが性犯罪に巻き込まれるのを心配する親御さんは是非奈良に住んで下さい、と宣伝したいところであろう。しかし、そもそも子どもを産む時点での環境が、奈良では危うい。

奈良の妊婦が19病院に救急搬送を断られたあげく死亡した事件が起きたのは、昨年の8月。さらに、昨日、奈良県内で受け入れ病院が見つからず、やむなく妊婦を大阪府高槻市まで搬送中の救急車が接触事故を起こしている。奈良では、産科は県外に救急搬送するのが当たり前になってるのだろうか。

何が主張したいかというと、しょうもない条例を作る前に、もっとやるべきことがあるだろということである。

主題歌初挑戦??

宮崎羽衣は、アニメ「まじかるカナン」のOPテーマ「マジカルちょーだいっ」を歌っている。さらに、アニメ「姫様ご用心」でも、新谷良子とともにOPを歌っている。なので、「宮崎羽衣、『ナイトウィザード』で主題歌初挑戦」というのは間違いだろう(http://mantanweb.mainichi.co.jp/web/2007/08/post_1278.html)。

5時間耐久「マリア様がみてる」レース

マリア様がみてる」とは、女子高生同士の愛をテーマにした百合小説である。アニメ化もされている。

舞台となる女子高には、上級生と下級生が「姉妹(スール)」の契りを交わすという慣習がある。そして、スールになった者同士は、恋人以上の濃密な関係を築く。ただし、作品中に性描写はなく、物語の中心は人間関係の深まりに置かれる。

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正直なところ、私は、TVアニメ版を最終話まで見通すことができなかった。物語の中で、小笠原祥子(おがさわら・さちこ)と福沢祐巳(ふくざわ・ゆみ)がスールになるのだが、祐巳ちゃんが庶民なのに対し、祥子さまは斜め上行くお嬢様という設定。なので、育った環境が違うから、2人の気持ちはいつも噛み合わないというわけである。 

これが見ていて実にイライラする。必要以上にベタベタした関係を求めたかと思えば、いきなりヒステリーを起こす。お前ら、もう少し自分から相手の方に歩み寄ろうという姿勢はないのかねというツッコミも空しく、もう見てらんないというわけで、視聴放棄した。

原作はコバルト文庫であり、いわゆる「男の論理」で楽しむには限界がある、というのが私の結論であった。ところが、私の友人に、「マリみて」ファンの男が2人いる。彼らの存在は、私の感性がおかしいのではないかと不安にさせた。

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その「マリア様がみてる」が、OVAになって帰ってきた。TV版以降、もう2年半も「マリみて」を封印していたのであるが、あれ以来、自分の感性にも変化があるのではないかというテストの意味を含めて、この度5時間耐久レースを行った(50分×全5巻)。

【第1話】子羊たちの休暇
あかん、これデンパやで。「天使様」がどうのこうの、「悪戯好きの妖精」がうんぬんかんぬんと、一発キメなきゃ出てこないような台詞に居心地の悪さを感じる。
祐巳ちゃんが「♪マリア様のこころ〜」っていきなり歌い出したときには、もうどうしようかと思ったが、最後はいい話だった。

【第2話】略してOK大作戦(仮)
小笠原祥子は、自分のヒステリーを自覚してるるぅぅぅぅぅ(←若本口調で)。これは意外だった。
2話のテーマは、魁!!男塾のむさくるしさに吐き気を催される高貴な祥子さま。アムロ金太郎氏ね。姉弟愛の描写はよかった。

【第3話】涼風さつさつ
テーマは、ヤンデレに手を焼く祐巳ちゃん。
ところで、人間関係の微細な調整に精力の大半を投じている彼女らの生き様は、なんとも非経済的に見える。「マリみて」に対して私が抱いてきた違和感とは、この点に起因することが分かってきた。
物語内在的な点で言えば、スールの座にかけては、くぎみーが演じるツンデレの方に一日の長がある。祐巳ちゃんも扱いが上手いし、デレ描写あったし。ラストのパンダはシュール過ぎてワロタ。

【第4話】レディ、GO!
体育祭は個人的に好きじゃないのでスルーで。見所は、(1)祐巳フォークダンスする瞳子のデレ、(2)由乃の言葉責め、(3)祐巳→可南子のhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8F%E3%81%99%E3%81%90%E3%82%8A%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%82%BA%E3%83%A0。お嬢様学園物語的に、(3)はどうかと思った。

【第5話】チャオ ソレッラ!
聖さまの伏線張って回収しないのは何故?
見所は、(1)祐巳ちゃんお風呂、(2)由乃のシャワー、(3)祐巳「はいっ、おっきしましょう」。おっきしないわけにはいかない。
最後、「そっか 分かった。祥子さまは照れると、ちょっと怒った感じになるんだ。んふっ」と祐巳ちゃんが気付く。これはなるほどと合点できるのであるが、だとしてもなんと面倒くさいお方なのか、祥子さまは。そこを愛しく思えるかどうかが、「マリみて」好きになれるかの分岐点だと言えそうだ。

「終わりの会」の思い出

終わりの会とは、小学校のホームルームの時間に、クラスメートの規則違反を名指しであげつらう儀式である。一種の人民裁判である。

典型パターンを示せば、まず、「今日、○○君が△△してきましたぁ。謝って下さいぃ」という訴えがあり、訴えられた○○君が、バツの悪そうに「ごめんなさい」と謝ることで一件落着となる。

この「終わりの会」は、私のトラウマになっている。なので、あまり思い出したくないのだが、風化させるべきではないので、ここに記録しておく。

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今でも悔しいのが、2年生の時の「M藤くんゲロ事件」である。これは、牛乳飲んでゲロを吐いたM藤くんをからかったとして、私が他の数名の男子と共に訴えられたというものである。

他の男子は、皆、訴えの事実を認めて謝った。クロだからである。しかし、私には、身に覚えのないことであった。とはいえ、K島というリーダー格の男子も(こいつもクロ)、潔く謝る態度に出ていた。したがって、ここで私だけが「自分はやってない」と主張して謝罪を拒み続けると、担任教師及びクラス全体からの目がある以上、非常にマズイことになる。

私は、折れた。他に選択肢はなかった。

  ◇   ◇   ◇

このように、低学年の頃の私は、糾弾される側に回ることがしばしばだった。これは非常につらかった。何度も泣きながら通学路を下校したはずである。

だが、高学年になると、訴えられることはほとんどなくなり、主に傍観する側に回っていた。この理由は、「弱い」か「強い」かという単純なものと考えられる。

すなわち、3年生の当時、背の順で、私は前から3番目にいた。水泳は3mしか泳げず、跳び箱は跳べなかった。弱っちかった。だが、高学年になって、体格が急成長したため、背の順は後ろの方になった。25mは泳げるようになり、跳び箱も5段以上跳べるようになった。ちなみに、今は跳べない。

結局、「弱い」「強い」という単純な要素が、「終わりの会」で狙い撃ちされるかどうかのメルクマールだと考えられる。

小泉政権が進めた構造改革に対しては、「弱肉強食」の社会になるという批判が寄せられていた。しかし、弱者にとっての本当の地獄は、「終わりの会」なのである。

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高学年になると、この「終わりの会」という凶悪な糾弾会を、客観的に観察していた。当事者でないから気楽である。

なかでも記憶に残るのは、N山君の事件である。N山君は、彫刻刀だったか、ハサミかだったかを、ちゃんと仕舞わずに机に放置していたために、他の人に当たる危険がありましたという理由で訴えられた。

訴えたのは、U野さんという、大衆ポピュリズムの典型みたいな女子である。すなわち、大衆ポピュリズムにおいては、「悪」を糾弾する側は、いかなる理由においても「正義」である。そして、N山君は、少々嫌われ者だった(特に女子から)。「弱い」者には、「悪」のラベルが貼られる。

しかし、N山君は、放置したのは自分ではないと果敢に主張した。だが、U野も、私は見ていましたとばかりに追及を止めなかった。その様は、社民党の某議員に似ている。

私は、N山君と竹馬の友みたいなものであった。保育園のベビーベッドで私とN山君と仲良くお昼寝をしている写真があるくらいである。そして、N山君がクラスの女子から嫌われており、スケープゴートにされている雰囲気は分かっていた。しかし、私は、N山君の味方をするわけでもなく、とにかく黙っていた。ファシズムとはこういうものである。

事態は、N山君が容疑を強く否定すればするほど、U野の糾弾が強まるという、膠着状態に陥っていた。そこで、H川という担任教師が介入したのであるが、これには唖然とした。H川は、自分の非を認めようとしないN山君の態度の方を厳しく非難したのである。なぜU野の主張を採用したのかを示さずにである。

N山君は可哀想であった。H川の強引な裁定に問題があることは、当時友人だったO田君も同意してくれたので、私は少し安心した。しかし、私もO田もこそっりそういう話をするだけで、H川に対しておもてだって違和感を表明することはできなかった。

H川は、日本共産党シンパであった。赤旗の記事を黒板に貼りだし、児童に読むようすすめる教師であった。私のH川に対する不信感は、戦後左翼に対する不信感につながっている。日教組共産党は、なぜ自分たちが世間から嫌われているのか、もう少し考えた方がいい。

  ◇   ◇   ◇

もうひとつ思い出すのは、K本君の事件である。K本君がなぜ訴えられたのかは忘れたが、K本君もやはり自分の容疑を強く否認していた。

だが、糾弾に追いつめられたK本君は、ついに言い放った。「証拠はあるんですか」、と。

この台詞は、「終わりの会」においては、禁句であった。なぜなら、悪ふさげやイタズラ、嫌がらせの類は、通常、他の人間が見ていないところでやるものだから、証拠なんか出し得ないのである。それゆえ、ひとたび証拠を要求すると、「終わりの会」が機能停止してしまう。それゆえ、証拠不存在の反論をしないのが「終わりの会」の暗黙の了解となる。

そんなわけで、「終わりの会」においては、証拠関係なく、当事者の「言い合い」によって決着することが常態化していた。結局、これは当事者の立場の「強弱」によって、決着が左右されることを意味する。まさしく中世であった。

近代法のルールはこういう悪弊を否定した。わが国の刑事訴訟法317条は、「事実の認定は、証拠による」と定める。証拠裁判主義と呼ばれるルールである。

317条を見ると、K本君を思い出す。K本君、ありがとう。*1

*1:いま振り返ると、総じて私は卑怯な態度をとっている。自分はやっていないとはっきり言わずにさっさと謝った卑怯さ、N山君がスケープゴートにされているのを知りながら黙っていた卑怯さ、H川に異議を唱えずにO田君と陰口をささやいた卑怯さは、認識している。これを全て私が人格形成責任として引き受けろというのはあんまりだが、過酷な環境への適応形態に過ぎないとして割り切るだけではいけないだろう。