「終わりの会」の思い出

終わりの会とは、小学校のホームルームの時間に、クラスメートの規則違反を名指しであげつらう儀式である。一種の人民裁判である。

典型パターンを示せば、まず、「今日、○○君が△△してきましたぁ。謝って下さいぃ」という訴えがあり、訴えられた○○君が、バツの悪そうに「ごめんなさい」と謝ることで一件落着となる。

この「終わりの会」は、私のトラウマになっている。なので、あまり思い出したくないのだが、風化させるべきではないので、ここに記録しておく。

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今でも悔しいのが、2年生の時の「M藤くんゲロ事件」である。これは、牛乳飲んでゲロを吐いたM藤くんをからかったとして、私が他の数名の男子と共に訴えられたというものである。

他の男子は、皆、訴えの事実を認めて謝った。クロだからである。しかし、私には、身に覚えのないことであった。とはいえ、K島というリーダー格の男子も(こいつもクロ)、潔く謝る態度に出ていた。したがって、ここで私だけが「自分はやってない」と主張して謝罪を拒み続けると、担任教師及びクラス全体からの目がある以上、非常にマズイことになる。

私は、折れた。他に選択肢はなかった。

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このように、低学年の頃の私は、糾弾される側に回ることがしばしばだった。これは非常につらかった。何度も泣きながら通学路を下校したはずである。

だが、高学年になると、訴えられることはほとんどなくなり、主に傍観する側に回っていた。この理由は、「弱い」か「強い」かという単純なものと考えられる。

すなわち、3年生の当時、背の順で、私は前から3番目にいた。水泳は3mしか泳げず、跳び箱は跳べなかった。弱っちかった。だが、高学年になって、体格が急成長したため、背の順は後ろの方になった。25mは泳げるようになり、跳び箱も5段以上跳べるようになった。ちなみに、今は跳べない。

結局、「弱い」「強い」という単純な要素が、「終わりの会」で狙い撃ちされるかどうかのメルクマールだと考えられる。

小泉政権が進めた構造改革に対しては、「弱肉強食」の社会になるという批判が寄せられていた。しかし、弱者にとっての本当の地獄は、「終わりの会」なのである。

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高学年になると、この「終わりの会」という凶悪な糾弾会を、客観的に観察していた。当事者でないから気楽である。

なかでも記憶に残るのは、N山君の事件である。N山君は、彫刻刀だったか、ハサミかだったかを、ちゃんと仕舞わずに机に放置していたために、他の人に当たる危険がありましたという理由で訴えられた。

訴えたのは、U野さんという、大衆ポピュリズムの典型みたいな女子である。すなわち、大衆ポピュリズムにおいては、「悪」を糾弾する側は、いかなる理由においても「正義」である。そして、N山君は、少々嫌われ者だった(特に女子から)。「弱い」者には、「悪」のラベルが貼られる。

しかし、N山君は、放置したのは自分ではないと果敢に主張した。だが、U野も、私は見ていましたとばかりに追及を止めなかった。その様は、社民党の某議員に似ている。

私は、N山君と竹馬の友みたいなものであった。保育園のベビーベッドで私とN山君と仲良くお昼寝をしている写真があるくらいである。そして、N山君がクラスの女子から嫌われており、スケープゴートにされている雰囲気は分かっていた。しかし、私は、N山君の味方をするわけでもなく、とにかく黙っていた。ファシズムとはこういうものである。

事態は、N山君が容疑を強く否定すればするほど、U野の糾弾が強まるという、膠着状態に陥っていた。そこで、H川という担任教師が介入したのであるが、これには唖然とした。H川は、自分の非を認めようとしないN山君の態度の方を厳しく非難したのである。なぜU野の主張を採用したのかを示さずにである。

N山君は可哀想であった。H川の強引な裁定に問題があることは、当時友人だったO田君も同意してくれたので、私は少し安心した。しかし、私もO田もこそっりそういう話をするだけで、H川に対しておもてだって違和感を表明することはできなかった。

H川は、日本共産党シンパであった。赤旗の記事を黒板に貼りだし、児童に読むようすすめる教師であった。私のH川に対する不信感は、戦後左翼に対する不信感につながっている。日教組共産党は、なぜ自分たちが世間から嫌われているのか、もう少し考えた方がいい。

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もうひとつ思い出すのは、K本君の事件である。K本君がなぜ訴えられたのかは忘れたが、K本君もやはり自分の容疑を強く否認していた。

だが、糾弾に追いつめられたK本君は、ついに言い放った。「証拠はあるんですか」、と。

この台詞は、「終わりの会」においては、禁句であった。なぜなら、悪ふさげやイタズラ、嫌がらせの類は、通常、他の人間が見ていないところでやるものだから、証拠なんか出し得ないのである。それゆえ、ひとたび証拠を要求すると、「終わりの会」が機能停止してしまう。それゆえ、証拠不存在の反論をしないのが「終わりの会」の暗黙の了解となる。

そんなわけで、「終わりの会」においては、証拠関係なく、当事者の「言い合い」によって決着することが常態化していた。結局、これは当事者の立場の「強弱」によって、決着が左右されることを意味する。まさしく中世であった。

近代法のルールはこういう悪弊を否定した。わが国の刑事訴訟法317条は、「事実の認定は、証拠による」と定める。証拠裁判主義と呼ばれるルールである。

317条を見ると、K本君を思い出す。K本君、ありがとう。*1

*1:いま振り返ると、総じて私は卑怯な態度をとっている。自分はやっていないとはっきり言わずにさっさと謝った卑怯さ、N山君がスケープゴートにされているのを知りながら黙っていた卑怯さ、H川に異議を唱えずにO田君と陰口をささやいた卑怯さは、認識している。これを全て私が人格形成責任として引き受けろというのはあんまりだが、過酷な環境への適応形態に過ぎないとして割り切るだけではいけないだろう。