西園寺世界という人格〜School days総評〜

※以下の記述はアニメ版に基づく

School Days」とは、伊藤誠桂言葉(ことのは)、西園寺世界の3人の高校生の三角関係を描く泥沼愛憎劇である(以下、すべてネタバレ)。

世界が、誠と言葉の仲をとりもったおかげで、誠と言葉が恋人同士になったのであるが、言葉がなかなか「ヤらせてくれない」ことに不満を抱き始めた誠は、「練習」と称して世界を抱いてしまう。世界の肉体に溺れた誠は、言葉を捨ててしまうのだが、そのうち世界の妊娠が発覚すると、誠は「どうして子どもなんて作ったんだよ!」と自分の責任を棚に上げた暴言を世界に浴びせて、ふたたび言葉に接近する――という破滅的な物語である。

けなげなのは、桂言葉である。誠が世界に二股をかけても、三股(乙女と)、四股(刹那と)、五股(光と)かけても、それでも言葉は、なおも「私は誠くんの彼女です」と言い続けた。

言葉が誠に固執するのは、言葉がクラスで居場所がない、ないしはイジメられているポジションにあったからだという指摘がある (moonphase雑記http://d.hatena.ne.jp/moonphase/20070711#p1参照)。言葉にとって誠は、学校において唯一話ができる相手であり異性であったからこそ、言葉は誠に固執したのである。

  ◇   ◇   ◇

これに対して、西園寺世界は、つかみどころがない。三角関係モノであるとはいえ、作中では世界の誠に対する恋愛感情がほとんど描写されていないので、どうして世界が誠のことが好きなのが分からないのである。

なぜ、世界は、最初、誠と言葉の仲をとりもったのか。それは、「いい子だと思われたかった」「自分をよく見せたかった」からである(アニメ最終話)。だが、それからすぐに、世界は、何らためらうことなく誠を寝取ってしまう。自分が引き合わせたにもかかわらず、その言葉から誠を奪ったことについての葛藤は何ら描かれていない。

よくある「三角関係ラブコメ」のヒロインならば、ここで強い葛藤を覚えるはずである。だが、世界にはそのような葛藤がない。この点で、世界というヒロインは、異彩を放っている。

このように、世界は、内省というものを欠く人間であり、自分の行いをかえりみたりはしない。だからこそ、妊娠が発覚して誠に捨てられたと感じた途端、今度は逆上して、あんなに「愛し合った」はずの誠を刺し殺すのである。

これに対して、言葉は、誠に対してだけは加害を向けることはなかった。逆上のあまり誠を刺し殺した世界、死体となってもなお誠を抱きしめる言葉――両者は対照的である。その場その場で感覚的にしか行動しない世界と、誠に対する変わらぬ愛を信じ続ける言葉を比べれば、両者の誠に対する愛の深さには格段の差がある(それが良いことなのかは別として)。
 
上で「作中では世界の誠に対する恋愛感情がほとんど描写されていないので、どうして誠のことが好きなのが分からない」と書いたが、このことは、世界という軽薄な人間においては、むしろ分からなくて正しいのである。そもそも、愛情の強さや深みなんて理解し得ないのが、世界という人間なのである。

誠を誘惑したことを言葉から非難された世界は、「違う!私と誠は愛し合って!二人の気持ちは一緒だったんだから!」と必死の反論を試みる(アニメ最終話)。だが、これほどまでに陳腐に聞こえる台詞を、私は他に知らない。

  ◇   ◇   ◇

その場その場の感覚で軽薄にこの世を生きる世界は、人格的なまともさを欠いている。とはいえ、ややもすれば恋愛中毒気味の重々しい性格の言葉よりも、むしろ世界に対して親近感を覚えるユーザーもいる。

そして、五股かけてもなんのその、「史上最低のエロゲ主人公」とまで称される誠もまた、人格的なまともさを欠いている。つまり、救いようのない人間だという点において、誠と世界はお似合いのカップルなのである。だから、もし最初から、誠と世界しかいなければ、一つの幸せな(ドキュンカップルが成立して済んだはずであった。

だが、現実は、その世界が誠と言葉を引き合わせて、誠と言葉という最悪のカップリングがまず成立してしまった。惨劇は、ここから始まったのである。