欺瞞的護憲論の見本

秋月瑛二氏の樋口陽一批判を読んだ(http://akiz-e.iza.ne.jp/blog/entry/780953/)。至極真っ当な批判である。

月氏が批判するのは、樋口論文の「九条のもとで現にある『現実』を維持してゆくのが、それこそ『現実的』な知慧というべきです」という部分である。

これこそ、井上達夫が批判するところの護憲派の最もたる欺瞞である。井上は言う。「護憲派は彼ら自身を含む国民全体が絶対的平和主義によって課される『殺されても殺し返さずに抵抗するという、極めて重い苛烈な責務』を回避して、自衛隊・安保によって供給される防衛サービスという公共財を享受し続けることを事実上容認しながら、その規範的認知は留保して、9条に対する自らの絶対的平和主義的解釈を温存することが可能になった。」 (id:hiranoaya_daisuki:20081024参照)

風邪の治し方

 ぬるめの風呂に入ったのは、明らかに失敗だった。湯船の狭さからゆくっりつかることができず、結局、体を冷やす結果になってしまった。

 普段通りの風呂の温度、入り方でよかったのである。


  ◇   ◇   ◇

 ところで、産経新聞連載の「橋下徹研究」がよく書けている。

 橋下氏自身のこれまでの半生が、彼の政策論に色濃い影響を与えていることが丁寧に裏付けられている。 

井上達夫の憲法9条削除論

秋月瑛二の「団塊」つぶやき日記(http://akiz-e.iza.ne.jp/blog/entry/766958/)を読んだ。

上記記事においては井上達夫が批判されている。
しかし、井上は、単純な「護憲論者」でもなければ、秋月氏が嫌う「左翼」とも言い難いと思われる。
なぜなら、井上は「憲法9条削除論」を主張しているからである。

昔書いた井上論文の紹介記事を、以下に再掲する。

   ◇   ◇   ◇

井上達夫(東大法学部教授)が、憲法9条の削除論を主張している(論座編集部編『リベラルからの反撃』2006年・朝日新聞社)。井上はわが国の法哲学界を牽引する研究者であり、珍論暴論として片付けることはできまい。

井上は、まず改憲派の欺瞞を次のように曝く。

「『押しつけ憲法』を峻拒する改憲論者も、『押しつけ農地改革』を同様な峻厳さをもって否定していない。…『占領勢力に押しつけられた改革も結果的に実益があればそれでよし』とするのは自己欺瞞である。」

次いで、井上は、護憲派の欺瞞も曝く。

護憲派は彼ら自身を含む国民全体が絶対的平和主義によって課される『殺されても殺し返さずに抵抗するという、極めて重い苛烈な責務』を回避して、自衛隊・安保によって供給される防衛サービスという公共財を享受し続けることを事実上容認しながら、その規範的認知は留保して、9条に対する自らの絶対的平和主義的解釈を温存することが可能になった。」

自衛隊と安保がわが国には存在する。これらが第三国に対する抑止力となってわが国の安全が保障されている現実がある。護憲派は、本来であれば、このような利益を拒否しなければならない。しかし、護憲派は、「9条がなかったら、もっとひどくなっていたはずで、それに比べればまだまし」という巧妙な論理により、かかる利益享受を不問化している欺瞞があるというわけである。

 
巷に流布する改憲論・護憲論のいずれをも斥けた井上の結論は、9条の削除である。

「9条と乖離した現実が改憲派のみならず護憲派によってもなし崩し的に受容されてきた戦後の政治状況・思想状況が、どれほど憲法の規範性を『嘘くさい念仏』として茶番化し、日本における立憲主義の確立と発展を阻んできたか」
「9条がはびこらせる政治的欺瞞は立憲主義の精神を蝕んできた。憲法の本体を救うために、この病巣を切除することこそ、真の護憲の立場である」。

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井上の立論を敷衍すると、次のようになる。

憲法違反の行為は無効である。そもそも憲法とは、それに違背する政府の行為を無効化するという極めて強力な法なのである。

自衛隊の設置も政府の行為である。したがって、9条について絶対的平和主義の解釈を採った場合、自衛隊憲法違反でその存在自体が無効であるから、即刻解体されなければならない。

しかし、戦後のわが国は、上記の政治的欺瞞の下に、憲法違反のはずの自衛隊・安保の存在を温存してきた。憲法違反のものが現実に存在しているなどというのは、憲法の強力な規範力の下では本来ありえないことである。

このことは、国民にとって、「憲法の規範性を『嘘くさい念仏』」だと認識させる事態を招いた。憲法あっても役に立たずという無力さは、わが国における立憲主義の確立と発展を阻んだのである。

イラク派遣「違憲」判決批判

イラクにおける自衛隊の空輸活動を違憲とした名古屋高裁の判決について、覚え書きをしておきたい。

自衛隊イラク派遣に「政治的」立場として反対していた者は、判決を好意的にとらえるだろう。逆に、イラク派遣について「政治的」立場として賛成していた者は、判決には到底納得できないだろう。

しかし、裁判所に求められているのは「政治的」判断ではなく、「法的」判断である。法的な見地からすれば、判決には疑問がある。

最大の問題点は、判決が理由中で憲法違反を認定しながら、結論として原告の請求をいずれも退けた点にある(イラク派遣の違憲確認請求及び差止め請求は却下、国に対する損害賠償請求は棄却)。要するに、憲法違反の判断は、判決の結論に無関係な「傍論」に位置づけられるのである。

この点について、朝日と毎日の社説が無視を決め込んでいたが、読売と産経の社説は正当に指摘していた。

裁判所の判決には、執行力が伴う。執行力とは、民事事件においては敗訴被告の財産を強制的に差し押さえる力であり、刑事事件においては有罪被告人を強制的に身体拘束する力である。こういう強制的な「力」が伴うことによって、裁判所の判決は意味のあるものになるのである。

そうすると、結論として原告の請求を全て退けた今回の判決には、法的には何の意味もないことが分かるだろう。憲法に違反する国家行為があると認めながら、裁判所は当該国家行為を是正しないという判決なのである。そうであるがゆえに、判決後、町村官房長官は派遣続行を表明することができたのである。

したがって、判決に対しては、左右両サイドから批判を加えることができる。まず、左サイドからは、「違憲であれば差し止めを認め、裁判所は政府にイラク撤退を強いるべきだ」(http://mainichi.jp/area/okinawa/news/20080418rky00m010001000c.html)という批判があってしかるべきである。国家の行為に憲法違反という重大な違法があることを認める以上、その状態を放置することは許されないという、正当な批判である。

右サイドからは、結論として請求を認めないならわざわざ違憲判断をするなという、読売・産経社説の批判である。憲法理論的に言えば、憲法判断は事件の解決にとって必要な場合以外は行わないという「憲法判断回避の原則」がある。請求認容判決を出してしまうと、イラク撤退という重大な政治的効果が生じることに躊躇を感じるならば、高度に政治的な国家行為に対して裁判所の審査権は及ばないという「統治行為論」というツールがあるはずだ。にもかかわらず、そんなのはおかまいなく傍論を書きまくるのはおかしいという、これまた正当な批判である。

裁判所がなすべき判断は、(a)イラク派遣は憲法違反であり、原告の請求は認容されるとするか、(b)憲法判断には踏み込まず、原告の請求を退けるのどちらかである。少なくとも、判決のような(c)イラク派遣は憲法違反だけれども、原告の請求は退けるなどという理屈は、筋が通らないと思われる。

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というのが、裁判所の機能論についての原理原則的な考え方、すなわち権利保護機能と紛争解決機能を重視する理解を貫いた話である(この原理原則に忠実な立場からの著作として、井上薫『司法のしゃべりすぎ』新潮新書)。

確かに、一般的な訴訟においては、その中心的争点が原告の権利利益を回復することに置かれるのであるが(権利保護機能)、本件はそうではない。いわゆる「政策形成訴訟」の側面があるからである(「現代型訴訟」とか「社会的争点提起訴訟」と言われることもある)。

政策形成訴訟とは、上記のような原理原則的な裁判所の機能を超えて、訴訟が行政や立法機関に一定の施策や立法的措置を講じさせる政治的・社会的インパクトを与えることも目的とする訴訟である。政策形成訴訟によって政策実現した最近の例としては、ハンセン病国賠事件や薬害肝炎訴訟,残留孤児国賠訴訟,原爆認定集団訴訟がある。

裁判に政策形成機能を認めるとすれば、たとえ法的には敗訴であっても、裁判所の判決が政治部門に対する「事実上」のインパクトになればよいわけである。本件で言えば、判決を受けて、政府がイラクからの撤退を「政治的」に検討せざるをえなくなることがインパクトということになる。

高裁の傍論での違憲判断を最終的なものとして確定させることに、「法的」には何ら意味がない。にもかかわらず、原告が「画期的判断」と喜んでいるのは、裁判所に憲法違反を認めさせるという政策形成において重要な目的をひとつ達成したからである。

id:krhghs:20080418は、「『司法を自分たちの政治的主張のために利用している』と批判されたくないならば、正々堂々と上告し最高裁に判断を求めるべきだ」と述べている。しかし、原告らにしてみれば、「我々は最初から司法を自分たちの政治的主張のために利用しているけど、それが何か?」ということになるわけである。

したがって、問題は、裁判所の機能として、権利保護機能と紛争解決機能を超えて、政策形成機能を認めるべきなのか否かである。そんなのは裁判所の役割ではないという議論がある一方で、現実に上に述べたハンセン病国賠事件等で裁判所が果たした役割に鑑みれば、もはや政策形成機能は否定することはできないかもしれない。

今回の名古屋高裁判決も、後者の考え方に立つものであろう。つまり、傍論での違憲判断が持つ政治的インパクトを見越した判決ということになる。だが、民主的に選挙されたわけでもない裁判官がどうしてそのような政治的機能を行使し得るのかという疑問は拭えない。

比呂美の部屋シーン演出の賛否

hiranoaya_daisuki2008-02-08

 true tears第05話「おせっかいな男の子ってバカみたい」における、比呂美の部屋でのシーンを眞一郎視点と比呂美視点でリピートする演出について。

 「比呂美が声に出してることと、心の声がほとんど変わらなかったから効果的だったとは思えない」という否定的な意見がある(http://d.hatena.ne.jp/moonphase/20080203#p1)。

 しかし、あの演出は、眞一郎に対しては本心を言葉にしなかった比呂美が、「眞一郎の言葉で徐々に冷静さを失って」(http://anime.rin9.net/log/1304.html)、ついつい衝動的に本心を出したことを表現していると見るべきだろう。

風俗産業分類一覧

 風俗産業そのものがアンダーグラウンドな性質を有する以上、そこで用いられるインフォーマルな用語ないし概念の分類には困難を伴う――。

 という難しい話をする以前に、例えば上司に連れて行ってもらう機会があっても、自分がどこに行ったのか分からないと自慢もできないのである。

 ネットの風俗用語解説等を参照して、私が分類したところによれば、次の通りである(デリバリー、出会いの類は除く)。

1. スナック……カウンター越しに座って酒(普通は低額)
2. キャバクラ……隣で座って酒(時間制で明朗会計)
3. クラブ……隣で座って酒(高額)
4. ピンキャバ……酒&胸の触り舐めあり
5. ピンサロ……酒&手・口あり
6. イメクラ……ヘルスと同等
7. ヘルス……手・素股・パイズリなど(一部本番あり)
8. ソープ……本番あり(一部なし)

 私が行ったことがあるのは、3。トークが上手なのはさすがプロと思った。

西園寺世界という人格〜School days総評〜

※以下の記述はアニメ版に基づく

School Days」とは、伊藤誠桂言葉(ことのは)、西園寺世界の3人の高校生の三角関係を描く泥沼愛憎劇である(以下、すべてネタバレ)。

世界が、誠と言葉の仲をとりもったおかげで、誠と言葉が恋人同士になったのであるが、言葉がなかなか「ヤらせてくれない」ことに不満を抱き始めた誠は、「練習」と称して世界を抱いてしまう。世界の肉体に溺れた誠は、言葉を捨ててしまうのだが、そのうち世界の妊娠が発覚すると、誠は「どうして子どもなんて作ったんだよ!」と自分の責任を棚に上げた暴言を世界に浴びせて、ふたたび言葉に接近する――という破滅的な物語である。

けなげなのは、桂言葉である。誠が世界に二股をかけても、三股(乙女と)、四股(刹那と)、五股(光と)かけても、それでも言葉は、なおも「私は誠くんの彼女です」と言い続けた。

言葉が誠に固執するのは、言葉がクラスで居場所がない、ないしはイジメられているポジションにあったからだという指摘がある (moonphase雑記http://d.hatena.ne.jp/moonphase/20070711#p1参照)。言葉にとって誠は、学校において唯一話ができる相手であり異性であったからこそ、言葉は誠に固執したのである。

  ◇   ◇   ◇

これに対して、西園寺世界は、つかみどころがない。三角関係モノであるとはいえ、作中では世界の誠に対する恋愛感情がほとんど描写されていないので、どうして世界が誠のことが好きなのが分からないのである。

なぜ、世界は、最初、誠と言葉の仲をとりもったのか。それは、「いい子だと思われたかった」「自分をよく見せたかった」からである(アニメ最終話)。だが、それからすぐに、世界は、何らためらうことなく誠を寝取ってしまう。自分が引き合わせたにもかかわらず、その言葉から誠を奪ったことについての葛藤は何ら描かれていない。

よくある「三角関係ラブコメ」のヒロインならば、ここで強い葛藤を覚えるはずである。だが、世界にはそのような葛藤がない。この点で、世界というヒロインは、異彩を放っている。

このように、世界は、内省というものを欠く人間であり、自分の行いをかえりみたりはしない。だからこそ、妊娠が発覚して誠に捨てられたと感じた途端、今度は逆上して、あんなに「愛し合った」はずの誠を刺し殺すのである。

これに対して、言葉は、誠に対してだけは加害を向けることはなかった。逆上のあまり誠を刺し殺した世界、死体となってもなお誠を抱きしめる言葉――両者は対照的である。その場その場で感覚的にしか行動しない世界と、誠に対する変わらぬ愛を信じ続ける言葉を比べれば、両者の誠に対する愛の深さには格段の差がある(それが良いことなのかは別として)。
 
上で「作中では世界の誠に対する恋愛感情がほとんど描写されていないので、どうして誠のことが好きなのが分からない」と書いたが、このことは、世界という軽薄な人間においては、むしろ分からなくて正しいのである。そもそも、愛情の強さや深みなんて理解し得ないのが、世界という人間なのである。

誠を誘惑したことを言葉から非難された世界は、「違う!私と誠は愛し合って!二人の気持ちは一緒だったんだから!」と必死の反論を試みる(アニメ最終話)。だが、これほどまでに陳腐に聞こえる台詞を、私は他に知らない。

  ◇   ◇   ◇

その場その場の感覚で軽薄にこの世を生きる世界は、人格的なまともさを欠いている。とはいえ、ややもすれば恋愛中毒気味の重々しい性格の言葉よりも、むしろ世界に対して親近感を覚えるユーザーもいる。

そして、五股かけてもなんのその、「史上最低のエロゲ主人公」とまで称される誠もまた、人格的なまともさを欠いている。つまり、救いようのない人間だという点において、誠と世界はお似合いのカップルなのである。だから、もし最初から、誠と世界しかいなければ、一つの幸せな(ドキュンカップルが成立して済んだはずであった。

だが、現実は、その世界が誠と言葉を引き合わせて、誠と言葉という最悪のカップリングがまず成立してしまった。惨劇は、ここから始まったのである。